北の地に生まれた「続縄文時代」とは?
「歴史人」こぼれ話・第37回
オホーツク人の流入とヤマト王権の思惑
この続縄文時代に一つの転機をもたらしたのが、北方に住む粛慎(しゅくしん/みしはせ)ことオホーツク人の流入であった。
時は4世紀頃のこと、サハリンに住んでいたオホーツク人が、宗谷(そうや)海峡を渡って北海道に南下し始めたのである。稚内(わっかない)など道北に拠点を構えながら、利尻島(りしりとう)や奥尻島(おくしりとう)などを経て、さらに日本海沿岸を南下。6〜7世紀頃までには、日本海側では佐渡島(さどがしま)、太平洋側では八戸(はちのへ)辺りまで船で渡り、クロテンやラッコの毛皮などを交易品としていたようである。『日本書紀』欽明(きんめい)天皇5年(543?)の条にも、佐渡島に粛慎が船に乗ってやってきたことが記されている。
彼らは、秋から春にかけてはホッケやニシン、タラなどの漁に携わっていたものの、夏になると漁が低調となるため、この時期だけ一時的に南下してきた。その際、各地の人々と交易を行ったものの、トラブルも少なくなかったようである。困り果てて王権側に訴えでる者もいたとか。その辺りの様相も、『日本書紀』斉明(さいめい)天皇6年(660)3月の条に記されている。渡島(おしま/わたりしま 北海道南西部か)にいた蝦夷(えみし)が、「粛慎の船軍に押しかけられて殺されそうになった」と訴え出たのである。これを受けて、越国守であった阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、船軍二百隻を率いて出陣。比羅夫の一軍が彼らに加勢して、粛慎を敗走させたと記しているのである。
ただし、比羅夫が加勢したのは、必ずしも当地の人々のためではなかった。異民族であるオホーツク人を排除してこの地域の安定化を図ること、それがこの地を王権の管理下に置くことにつながるからであった。そればかりか、あわよくばその周辺における交易の利権を独占したいとの思惑まで見え隠れするのである。その後執拗に繰り返された蝦夷への征服戦争を鑑みれば、王権側が当地の人々のことを慮って出陣したとは、とても思えないのだ。
ともあれ、オホーツク人の到来によって培われたオホーツク文化や、同時代に形成された擦文(さつもん)土器(木片で擦ったような模様が特徴的)を特徴とする擦文文化の到来を境として、続縄文時代が終焉したとみなされるのである。
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